親鸞、蓮如、山科本願寺

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京都地下鉄東西線・東野駅。一日利用客1万人。山科(やましな)区のほぼ中心にあたります。

北西へ3分歩くと本願寺山科別院。親鸞(しんらん)が始めた浄土真宗の、西本願寺系のお寺です。

本堂

親鸞は平安時代末期の1173年に京都で生まれ、9歳で東山の青蓮院で仏門に入り、その後比叡山延暦寺で修行し、
29歳で浄土宗を開いた法然に弟子入りしました。
親鸞は「人間とは、自分も含め、欲望や執着などに振り回されているだけの自己中心なもの」と悟り、
法然と同様に「仏を信じ、身をゆだねることで救われる」と唱えました。
南無とは「信じて、ゆだねる」、阿弥陀とは「無限の命、光」を意味し、
南無阿弥陀仏は「無限の命と光を持つ仏様を信じ、自分自身を仏様にゆだねます」ということで、
極楽浄土へ迎えてもらうために、この言葉を唱えます。
さらに3分北西に歩くと東本願寺の山科別院。


親鸞の亡き後、その娘や弟子により京都に本願寺が建てられましたが、小さなお寺だったそうです。
約200年後の1470年頃、蓮如(れんにょ)が8代目の住職であった時、延暦寺に攻められ京都を追われました。
(天台宗のように修行を重んじるお寺は、念仏主体のお寺を、うとんだそうです)
蓮如は滋賀や福井と転々としましたが、全国に信者を増やし、1481年、この山科に本願寺を再建しました。
1km四方はある門前町を壁と水濠で囲い、自給自足の理想郷をつくり上げたのでした。
蓮如は1499年になくなりましたが、山科本願寺は、戦乱で火を付けられるまで、約50年続いたそうです。

尚、本願寺は江戸時代の初め、西と東に分裂しました。
そして山科にも山科本願寺の跡地に二つの別院が建てられ、現在に至ります。
近くを流れる山科川。

ちょうど中学校は放課後の時間


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本堂

親鸞は平安時代末期の1173年に京都で生まれ、9歳で東山の青蓮院で仏門に入り、その後比叡山延暦寺で修行し、
29歳で浄土宗を開いた法然に弟子入りしました。
親鸞は「人間とは、自分も含め、欲望や執着などに振り回されているだけの自己中心なもの」と悟り、
法然と同様に「仏を信じ、身をゆだねることで救われる」と唱えました。
南無とは「信じて、ゆだねる」、阿弥陀とは「無限の命、光」を意味し、
南無阿弥陀仏は「無限の命と光を持つ仏様を信じ、自分自身を仏様にゆだねます」ということで、
極楽浄土へ迎えてもらうために、この言葉を唱えます。
さらに3分北西に歩くと東本願寺の山科別院。


親鸞の亡き後、その娘や弟子により京都に本願寺が建てられましたが、小さなお寺だったそうです。
約200年後の1470年頃、蓮如(れんにょ)が8代目の住職であった時、延暦寺に攻められ京都を追われました。
(天台宗のように修行を重んじるお寺は、念仏主体のお寺を、うとんだそうです)
蓮如は滋賀や福井と転々としましたが、全国に信者を増やし、1481年、この山科に本願寺を再建しました。
1km四方はある門前町を壁と水濠で囲い、自給自足の理想郷をつくり上げたのでした。
蓮如は1499年になくなりましたが、山科本願寺は、戦乱で火を付けられるまで、約50年続いたそうです。

尚、本願寺は江戸時代の初め、西と東に分裂しました。
そして山科にも山科本願寺の跡地に二つの別院が建てられ、現在に至ります。
近くを流れる山科川。

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Comments
子供のころ、近くのお寺の灯篭は格好の遊び場でしたね。
>キラキラリ様
今朝はじめて暖房をつけました。
やっと秋て感じです。
>ゆったり人様
お坊さんもこのころは気が強かったみたいですね。
信長が、「自分が自由にできないものは鴨川の流れを逆にすることと、比叡山のてっぺんにある延暦寺の僧たちだけだ」と言ったくらいですから。
すごい勉強になります。
仏教系同士でそんなに争わなくてもという感じですが、歴史は物語るですね。
「南無阿弥陀仏」とはそのような意味だったのですね、覚えておきます。
ポチ!
いつもコメント有難うございます、
写真から何となく秋の気配を感じます
「南無阿弥陀仏」納得です。
としてて見事ですね^^
いつもありがとうございます。
1570~1580年、本願寺は織田信長と対立して戦争状態でした。(当時は大阪にあり、石山本願寺といわれました。結局、織田に寺を引き渡しましたが、その後秀吉がそこに大阪城をたてました)
1592年、教如が本願寺の跡取りとなったものの、織田に対し強行であった過去から、そのときの関白・秀吉が許さなかったそうです。
教如は本願寺を離れましたが、秀吉没後、徳川家康に重んじられ東本願寺を建てました。
>とうしろ様
いつも長い話にお付き合いいただきありがとうございます。
仏教はどうも・・・ ^^;
でも今、
南無阿弥陀仏唱えちゃいました
僕も自己中心な人間のようです^^
毎日歴史を勉強させていただいてます。
昔はお坊さんも物騒だったんですね。
でも、本願寺はなぜ、西と東に分裂したんですか?
ちなみに、わたしは金縛りにあった時しか「なんまんだぶ」って言いません、親鸞さんに怒られるかなあ(笑)
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