平泉・奥州藤原氏と義経

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8月の日本縦断旅行、今回の記事は岩手県南部の平泉
北上川に沿って走る東北本線の駅
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バスで2㎞北の中尊寺の入口へ
本堂へはまずこの月見坂を上ります。
1050年ごろまで、東北は出羽国を清原氏、
陸奥国を安倍氏という豪族が治めていました。
ところが、安倍氏が朝廷への貢物を怠るようになり、
朝廷は源頼義を征夷大将軍として派遣、
清原氏と協力して安倍氏を滅ぼし、
清原氏が東北全体を支配するようになりました。
(前九年の役1051~1062年)
このとき朝廷から任官され陸奥にいた藤原経清(つねきよ)は、
安倍の家長の娘を妻にしていたので安倍側についたが戦死。
妻は敵の清原氏に娶られ、
連れ子の清衡(きよひら)は清原氏の養子となります。
約20年後、
清原氏の跡継ぎ・真衡と養子・清衡が争い(後三年の役1083~1087年)、
勝利した清衡が、東北全体を治めるようになり、
父の姓・藤原を名乗るようになったのが、奥州藤原氏の始まり。
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のどかな田園風景
向こうの山には大文字
1105年、清衡は奥州藤原氏の繁栄を願い、この中尊寺を建てました。
本堂
金色堂の覆堂。この中に清衡が自らの廟堂として建てた金色堂があります。
撮影禁止でしたが、仏壇の下には清衡と、
二代目・基衡、三代目・秀衡の遺体が収められ、
御堂は漆塗りの上に金箔がはられるという豪華さ。
すぐ近くに旧覆堂。1962年まで約500年間、金色堂はこの中にありました。
能楽堂。奥州藤原氏は約100年にわたり、王朝風の文化を築き、 朝廷への貢物も豪華絢爛であったとのこと。
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後三年の役から100年たった1189年、源頼朝と対立した弟の義経は、
奥州の藤原三代目・秀衡をたよって、
この平泉に来て、かくまわれました。
しかし、秀衡がなくなったあと、
四代目・泰衡は頼朝からの圧力に屈し、
この中尊寺のすぐ近くのお堂にいた義経に対し兵をあげました。
義経は戦おうとせず、お堂にこもり、
外では弁慶が仁王立ちになって矢を受け止めましたが、
二人の命はこの地で果てました。
(芭蕉像)
やがて頼朝は、義経をかばったという罪で泰衡をも攻め、
奥州藤原氏は滅びました。
西行の歌碑。
若いころの西行と平清盛と頼朝・義経の父である義朝は、京都で一緒に御所の北面武士を務めた仲。
弁慶堂
今回の旅行までほとんど知らなかった奥州藤原氏と平泉ですが、
京都から数百㎞離れたこの地にも、日本の歴史があるんだと実感しました♪
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